『八興会館』 その3

 昭和38年に私費で建設された八興会館。運営も町に頼らず、私費で行った全国でも類を見ない道場。一般的に考えるのは、余裕のある資金を使って建設したと受け取られがちですが、それはまったく違います。
 
 昭和29年の大火後、会社の経営も厳しい状態になっていました。個人的な蓄財などあるわけがなく、それなのにどこから当時の450万というお金を工面できたのでしょう?

 建設当時、息子である紀八郎氏(現社長)は一八で専務として働いておりました。まともに考えれば、建設を賛成する身内などいるはずがありません。身内を説得するなどという方法を取らず、半ば強引に当時の専務を内地(本州)に出張に出させ、出張先へ次から次へと次の訪問先を指示し、1カ月近く帰って来させなかったとのこと。
 
 専務が帰ってくると、八興会館はほぼ出来上がっていたというのです。会社には田村さんという金庫番がいて、紀伊右エ門の強引な手法を裏で支えておりました。当時の金銭感覚では、借金を含めて個人資産も会社の資産も同じようなもの。あくまでも私の推論ですが、社長への貸付という形で、会社が建設資金を立替え、返済は社長の給与をそのまま当てたのではと思います。

 それゆえ、質素な生活でしたし、私たち孫は世間に当たり前のようにある祖父から孫へ何かを買ってもらったり、お年玉をもらうなど一切ありませんでした。私が祖父からもらったものは、唯一小学生のときに九州の出張先から送られてきた絵葉書1枚だけでした。

 「志を先に持って突き進め、金は後からついてくる」と私には見えます。高度経済成長という時代背景が後押ししてくれたのでしょうが、「志」が輝いていたからこそ、それに共感する多くの人たちによって支えられた八興会館でもありました。

『八興会館』 その3」への4件のフィードバック

  1. もとiwanaibito

    40年位前になりますが紀伊右エ門さんをよく見掛けてました。
    品格のある優しそうな方と記憶してます。
    金庫番の田村さんいつも椅子に胡坐で座っていましたね。

    私の妻は結婚前は岩内のある団体の事務局をしており1日に会費
    を集金に一八さんに行き紀伊右エ門さんに「1日から集金に歩く
    ものではない」月初めからお金を出すとその月はお金が出て行く、
    と怒られたそうです。  家に帰り両親に話したところ両親にも
    同じことを言われたそうです。  商いを大事にしていた方だった
    のですね。

    返信
  2. 北のお魚大使

    いつも貴重な昔のお話をありがとうございます。
    人の記憶に残す言葉を残す、行動をするということは、すごいと思います。
    また、しっかりそのことを覚えていてくださることも、言ったほうにとっては、うれしいと思います。
    田村さんのことも覚えていらっしゃるのですか。
    今度、ぜひ弊社の事務所にお越しください。
    当時と同じ机、椅子などほぼ同じものが残っています。

    返信
  3. 小林  

    ご無沙汰しております。
    八興会館のブログ見ておりました、懐かしいの一言ですね
    実に立派な方でした、子供心にすごいと思ったものです
    先代と一緒に現社長さんの黒色の乗用車で盃の
    潮香荘に子供20人前後いましたかね~行った記憶があります
    大広間で先代と一緒に騒いだ事が懐かしいです。
    いつも岩内の情報発信して下さって有難うございます
    応援してますよ!

    返信
    1. 北のお魚大使

      小林様、ありがとうございます。
      先代にとっては、剣士のほうが身内の孫よりも“家族”だったのでしょうね。
      当時は身内の理解がなかったので、余計に八興会館に力を注いだと思います。
      こうして、八興会館を懐かしんで書いてくださることが、私としてはちょっと救われた気になります。

      返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です